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photo:馬部文子                                                   
     The Sumida River area
    
 隅田川地区

 Asakusa, Ningyoucho, Tsukiji, Fukagaw 浅草人形町・築地・深川
       
   Sensoji, Mokubaza, Ningyocho, Harumi, Tukudajima, Sumidagawa terace walk,     Tokyo Bay Cruise

     浅草寺・木馬座・人形町・晴海・佃島・隅田川テラス散策・東京湾クルース
     

                   隅田川地区
ここは川のある庶民の町。大江戸の情緒が隅田川の流れ、向島、深川の風情とともに息づいている。 一見、華やかに思われた吉原も、佃島の渡し船も今はきえてしまったが、誰にも親しみやすい江戸っ子気分で楽しめるかってペラゴロたち達の浅草は大衆演劇の発生地。西から東京へやってくる人は、東京の中枢部に。 だが、北から来る人たちは、浅草の観音さまを拝み、東京下町の味を満喫する。お富与三郎の人形町、築地の魚河岸 のほか 280年程前小堀遠州が作ったとされる一万平方メートルの伝法院庭園を有する不思議な魅力をたたえる町々である。
         

*浅草は台東区ですが、ここでは隅田川地区(川のある庶民の町)に入れました。
Asakusa 浅草
                                      
                            
1.Sensoji (Asakusakannon)
浅草寺
( あさくさかんのん)


Kaminarimon
雷門  
天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)創建。 本瓦葺 切妻造り八脚門
           
初めは駒形付近にあったが鎌倉時代以降現在地に移築され風神・雷神が初めて奉安されたといわれる。当初は、伽藍守護のために、風水害または火災からの除難、一種の護法善神(ごほうぜんしん)であったが、風雨順時の天下泰平、五穀豊穣の祈願もこめられるようになったとされる。
現在の門は、慶応元年(1865)12月12日の田原町大火で炎上した門に替わり、昭和35年(1960)、95年ぶりに松下電器創始者松下幸之助氏のご寄進により、復興再建され、浅草寺の総門として威容を誇る浅草の顔。

永井荷風 雷門といっても門はなく慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。(昭和11年の頃、「墨東綺譚」を書くため、玉の井へ何度も訪れていた頃、雷門はなかったと。)再建されたのは昭和35年、荷風が亡くなった翌年になる。

Houzoumon宝蔵門  1964年再建。 (入母屋造 ・二重門 ・二階建 ・屋根二重)
雷門をくぐり、「仲見世」の商店街を抜けた先にある


   
鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられた。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。
ライトアップされた夜の宝蔵門ひときわ輝いて美しい。
    
 
    
2体の金剛力士像、左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。
Houzoumon back 宝蔵門 背面
 
門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。
                 

             v
Main Hall 本堂
    

           
夜のライトアップされた浅草寺本堂
    

The principal image of Sensoji :Kannon image (Height about 20cm)
浅草寺のご本尊
  観音像(高さ約20cm)
両手足が失われているが天衣、宝冠あり、ほぼ奈良時代ごろの青銅の菩薩像。
由来
ご本尊は推古天皇36年(628年)3月18日、浅草川の駒形堂付近で漁師の檜前浜成(ヒノクマノハマナリ)と竹成(タケナリ)が魚をとろうとしたときに、あみで引き上げた。と伝えられている。
起源

推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。

漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。

兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。

翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。



三社さまとは

三社さまとは奈良時代ご本尊を初めて浅草で祀った土地の豪族土師仲知(ハジノナカトモ)、それに仕える部民の檜前浜成、竹成の三人を祭ってきた。

本堂外陣より内陣を見る。
Palace: At the center Secret Buddha Honson is placed
宮殿
(くうでん) 中央に秘仏本尊を安置。
 

Main hall ceiling Picture (Heavenly woman by Doumoto Insho)
本堂天井画(堂本印象筆「天人図」)

       
Main hall Ceiling Picture (Dragon by Kawabata Ryuko)
本堂天井画(川端龍子筆「龍図」)

      

Five-story pagoda
五重の塔
 

天慶5年(942)武蔵の守に任ぜられた平公雅(たいらのきんまさ)本堂と五重の塔寄進。
          
徳川3代将軍家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに惜しくも焼失した。
戦後、浅草寺は十方ご信徒各位のご信助を得て、本堂、雷門、宝蔵門と伽藍復興に邁進し、牌殿・書院・他付属施設を備えた新様式の五重塔院を再建するに至った。
五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔の形式の一つである。

Yougoushuu 影向堂(ようごうしゅう)
観音さまのお説法やご活躍に不断に協力されている仏さま方を「影向衆(ようごうしゅう)」とお呼びし、これらの仏さまをおまつりするお堂。

Bentendo 弁天堂 「老女弁財天」を祀る。関東三弁天の一つ
   
本堂の東南、弁天山と呼ばれる小高い丘に建つ。縁日の「巳(み)の日」にお堂の扉を開き、法楽が営まれる。

お堂に向って右手前の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)第5代将軍徳川綱吉(1646~1709)の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進、改鋳されたものである。江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉(1644~94)の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である

            
鐘楼は昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焼失し、昭和25年(1950)に再建されたものであるが、鐘は幸いにも無事に残り、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされる。

かわいかったので思わず ’パチリッ’!
               弁天堂そば
Nitenmon 二天門 
重文  慶安2年(1649)創建。本瓦葺、切妻造り、木造朱塗り八脚門に、増長天(左)・持国天(右)を祀る。
背部
本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建つ。「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美(さんじょうさねとみ 1837~91)筆。
元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立。
寛永19年(1642)東照宮は焼失し、その後の再建は許されずに「石橋(しゃっきょう)」(影向堂前)とこの門だけが残った。
豊岩間戸命と櫛岩間戸命の二神が祀られていたが明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮より二天を奉安して「二天門」と改称した。
両像は戦時中、修理先で焼失し上野・寛永寺の巌有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟(れいびょう)より拝領したもの。補修・改築されてきたが平成22年(2010)創建当初の形式に戻された。

お水舎  昭和39年(1964)の建立で、浅草料理飲食業組合寄進。
             
天井には「墨絵の龍」(東 韻光 画)、八角形錆御影石造りの手水鉢の上に、かつて本堂裏にあった噴水に安置されていた高村光雲作の龍神像(沙竭羅(さから)龍王像)をまつる。

       
    



Denpoin 伝法院 庭園名勝指定(2011年9月21日)廻遊式庭園
約3,700坪の庭園は、寛永年間(1624~44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」である。
※現在は非公開
      
浅草寺の本坊。伝通院には安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがある。
客殿に阿弥陀三尊をまつり、その左右に徳川歴代将軍のうち歴代11名の位牌及び浅草寺各世代住職の位牌を安置する。回向道場として追善法要や、伝教大師忌の「山家会(さんげえ)」・天台大師忌の「天台会」などの論義法要が行われ、当山の修行道場でもある。
     
Touring garden 廻遊式庭園
伝小堀遠州作 寛永年間(1624~44) 廻遊式庭園
※元禄年間に輪王寺宮家の直轄となり明治まで秘園とされた 。
※小堀遠州(1579~1647) 本名は政一(まさかず)といい、作庭家として優れていた近江(現在の滋賀県)の大名。
          

             
この掲示板は前後欠けてはいますが、ほぼ全文あります。▲

      

                    
この手水鉢由緒ありげなのですが.......?!

  

       

                                

        
歴史 
金龍山 浅草寺の本坊~伝法院
           
        

             

       


            

       

  
  
Tenyuan天祐庵 
           
天明年間(1781~89)の作、名古屋の茶人である牧野作兵衛が、 京都表千家の「不審庵」を模して作る。
             
 
      
       



Asakusa Shrine 浅草神社


  

 

                 
浅草神社の由緒
奈良時代ご本尊を初めて浅草で祀った(三社さま)土地の豪族土師仲知(ハジノナカトモ)、それに仕える部民の檜前浜成、竹成の三人を祭ってきた。 土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりとされています。  これによると創建は1350年前、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖、郷土神として祀ったものであろうと推定されます。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。

Shiba Inu donated by Carpenter Toragoro   大工虎五郎の狛犬
      
天保七丙年申三月(1836年)浅草神社に大きな狛犬奉納。奉納者は田町の文三郎と山川町の大工の虎五郎です。

江戸の歴史は火事の歴史でもあり、その復興が江戸の経済を支えているという一面もありました。
吉原に於いても小さい火事は日常茶飯であり、全焼と再建を繰り返しています。吉原の主人達は全焼後の仮宅営業で利益を上げ、大工虎五郎は再建工事で利益をあげる。ちなみに狛犬奉納の前年そして翌年にも吉原は全焼しています。

       
神社の霊獣

神社には数多くの霊獣が描かれています。ほとんどが架空の動物ですが、いずれも平和の象徴であったり人々の幸福を願う存在です。
Following picture (from left Giraffe, Flying dragon 2nd tire  center Phoenix 
下図 左から 麒麟(きりん)、飛龍(飛流)、 二段目 中央 鳳凰
麒麟  麒麟は中国の古代思想における四神のひとつで虫も踏まず草を折ることもない仁獣で、優れた王(為政者)が出現したときに現れると言われます。
飛龍 体が魚で翼をもつ動物。胴が短く尾びれがあります。水を司る霊獣です
鳳凰 最も有名な霊獣の一つで、中国の古代思想における四神のひとつです。梧桐に宿り、竹の実を食し、醴泉レイセン(甘い水の泉)の水を飲んで、聖天子出生の瑞兆として出現すると伝えられています。鳳は雄、凰は雌と分けられています。






   

Sanjasai 三社祭

     
この画像では三社祭の2ヶ月前ですが、その神輿の点検 ・準備等がなされていました。今年は
平成28年三社祭日程/5月13日(金)14日(土)15日(日)です。
          
ふだんの日観音様境内は十万人程の参詣人があるが、浅草神社の三社祭り(5月17,8日)には200万人を超え、観音様の4万6千日(ほおずき市、 7月9,10日)にも50万人をこえる人出で賑わう
        

Hikan Inarijinja,Shrine 被官稲荷神社 神社正面鳥居は新門辰五郎奉納。
社殿  安政二年に創建。一間社流造 ・杉皮葺(間口1.5m、奥行約1.4m)。大正期の覆屋建築
社殿は先の関東大震災、東京大空襲にも奇跡的に焼け残った大変貴重な建築物です。
全体としてふつうより小造りで鳥居も低くて身体に近く親しみやすい神社です。ここでならお願い事かなえてもらえそう "my dream comes true" でありますように。
被官とは?
官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世するの意。
   
安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。 2年後 町の人が、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。

お稲荷さんの由来
古来から日本では、山や森、樹木に神様が宿るとされ、ご神木としてお祀りされている例があります。これと同様に動物にも神様との関わりを認めてきました。動物に対する信仰は、やがて動物はその神意を伝える使い(使者)とする信仰へ展開、これらの動物の代表といえるのが、お稲荷さんの狐です。 稲荷とは稲成り(いねなり)、つまり稲が成育することを意味していると言われています

Nakamise 仲見世
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していきました。

       

       

    

   
雷門から宝蔵門までの約250mの通りに江戸時代からの老舗約90店が並ぶ。当時、境内の労役に服した人々に参道での出店営業が認められたのが始まり。
   

戦争で焼けたが復興は早く今でも江戸ごのみの日本髪の髪飾り、化粧品、人形、、明治調の紅梅焼き、おこしを売っている。ここには 昔と近代的門前町がうずまいているようだ。
 
             
昭和11年には雷門はなかった。
その年、浅草を愛した永井荷風は随筆「寺じまの記」の冒頭部分に書いている。「雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだろう。」と。そして荷風が亡くなった昭和35年の翌年に再建されている。

3. Asakusa six wards 浅草六区 浅草演芸ホール
江戸時代初期、安楽庵策伝が大名にこっけいな話をしたことに始まる日本独特の芸能・落語をはじめ漫才、漫談、曲芸。ものまねなどの大衆演劇場。
*安楽庵策伝は、最後に「話の落ち」を使いおもしろくわかりやすくかたった1千以上法話をまとめた「醒睡笑」を著した「落語の祖」として戦国時代の高僧です。松貞徳、小堀遠州らと親交を深めた文化人でもありました。享年89歳。

         
                                   
浅草での移動はぜひ人力車のご利用を!
                            

                     木馬座
                                  
At Mokubaza 午後は木馬座で '13 6/27 劇団荒城 
 

  踊りの部...撮影はO.K.でしたのでパチリ!

        
    「清水の次郎長」の芝居は撮影禁止でした。 

        
 御ひいき筋フアンからは後、相当なプレゼントが届きます。

                    
浅草木馬座大衆劇場  お問い合わせ 03-3842-0709 大人1600円 小人900円
    
 
        
4.Kappa-Bashi かっぱ橋 道具街
約100年以上もの歴史誇る商店街。 南北800mに厨房用品、調理器具の専門店、問屋が170店以上並ぶ。食器類以外にも日本伝統の調理道具や本物そっくりの食品サンプルなど、ズラリと並ぶ専門店をウインドーショッピングするだけでも面白い。


最近、かっぱ橋界隈には外国人shopper が数多く見られるようになりました。
  
かっぱ橋へくればあなた好みの器、漆器、コーヒー器具etc. こだわりの品見つかるのでは!かっぱ橋、私の好きな街、ここで自分用&プレゼントの品をあれやこれやさがしながらのショッピング歩きは実に楽しい。 ここにくればあるんです!私の好きな.......。
            
ここには、なつかしい風景もありました。子供時代、世話をしてたと同じくらいの小さな水槽がおかれていてとてもなつかしくパチリ! 今でも私と似たようなことをやってる人がここにいたんですね! 
    

              商売繁盛を願って!
かっぱ河太郎大王様にお願いすれば願いは叶うのでは!!
           Kappa Kawataro
多くのお店は朝 8:30開店し閉店は5:30。今日は一応買い物を済ませることができご機嫌!多くのお店は閉店近く、これで今日はホテルへ直行することになりました。
        

    国際通りにて
浅草は時々来ますが、きょう初めてウエディング人力車一行に出会う。 人力車は明治に始まったとはいえ私の目には大変モダンup-to-date な結婚式に映りました。某神社に向かうおめでたくも厳粛さ醸す一コマを急いでぱちり。

         
夜の浅草ライトアップされて、昼の雰囲気と違うもう一つの浅草が楽しめます。”another Asakusa ”
                             

5. Denpoin street 伝法院通り
東西200mの通りに江戸文化が凝縮。和小物、甘納豆などの下町土産、職人技の逸品に出会える。 呉服屋の屋根にある鼠小僧、多彩な瓦化粧、シャッターに描かれた江戸八人衆など江戸の雰囲気を味わいつつ下町気分が楽しめる。
       

この壁画は当時東京芸術大学平山郁夫教授と福井夾人助教授の監修のもと、梅原幸雄・平塚雄二・北見克己・佐々木正各講師という錚々たるメンバーの手により描かれており、その原画を元にして、壁画へのアレンジも平山先生のご指導を得て、芸術性の高い素晴らしい作品に完成しております。

仲見世通り、東西約400m余にわたり、浅草草創からの歴史を語り、四季折々の伝統行事を繰り広げる「浅草絵巻」-まさに仲見世の財産であり、末長く保存されるべきものと思われる。

完成17年をすぎて、各店舗のシャッター本体が傷みはじめ、平成18年6月より7月にかけて、89店全店舗の「シャッター取り替え工事」を先行して行い、平成18年12月に第一期と全く同じ壁画が完成した。

シャッター壁画


 

   

     

      

  
仲見世シャッター壁画は、平成元年に完成し、「仲見世通り」のもう一つの顔として 夜のたたずまいを優雅に醸し出し、その存在は20年の永きを経て今や内外に広く知られ、訪れる人の目を楽しませています。


   

 
 
このお店 "superb !" 気に入っちゃいました。
      


   



         

        

       

       

 

浅草のページはここでおしまい。 最後に再び雷門の映像を、浅草人気のほどをお目にかけましょう。
雷門のお正月風景
         

           
お正月お出かけの節はどうぞ十分お気をつけていってらっしゃい。 それに思い出しましたが花火大会では 歩くことすら困難し引き返した記憶がございます。 人混み注意です。

                        


Tokyo Sky-tree Town 東京スカイツリータウン                    
業平・押上という江戸文化の継承地に、新しく生まれた「タワーのある街」。 自立式電波塔「東京スカイツりー」・商業施設「東京ソラマチ」を始め、水族館・プラネタリウム・オフィス なども併設。

a.  東京スカイツリー
634mの世界一の高さ誇る自立式電波塔。地上350m・450mの展望台からは富士山が見える。 タワー内にはショップ・カフェ・レストランあり。

b.   東京ソラマチ
スカイタウン内には「新・下町流」商業施設、ファッション、観光、フードなど312店舗が集まる。30・31Fではタワーを眺めながら食事できる。

c.   すみだ水族館
「東京諸島」の海をテーマに、世界自然遺産・小笠原の海を再現した大水槽は圧巻。ペンギンやオットセイなど見どころ満載。


                                   

Ningyocho Town 人形町
江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋の中村座と市村座が この通りに面していたが、「元禄江戸図」には「人形丁」とあり当時はその名で親しまれていたようですが 新和泉町(シンイズミチョウ)になり関東大震災以降、区画整理で 「人形町」に改名1933年(昭和8年)正式に人形町となる。かつては元吉原があり、市村座、中村座が華やかだった。人形町も明治以降新しい商店街となり、また浜町も明治座、真砂座の進出、或いは花井お梅の事件で有名になったが、ここも新しい街に変貌しつつある。(浜町緑道案内板参照

人形町の名の由来
安くて、短時間で十分に芝居を楽しめる、庶民の娯楽として盛況だった人形芝居。この界隈
現在の人形町 2 丁目周辺)には人形を作る人、修理する人、商う人や、人形を操る人形師ら
が大勢暮らしていました。
歴史
いまの人形町付近は、九州久留米の大名、旧有馬家下屋敷にまつられた水天宮(スイテングウ)が今でも庶民の信仰を集めて、下町の江戸情緒が偲ばれる。
  
Meijiza 明治座
             
             
たまには幕の内弁当食べながら芝居観賞してみたい!  
明治座や浜町公園に抜ける甘酒横丁には、伝統工芸店や老舗料理屋が数多く残っている。8月
のせともの市、10月の人形市、べったら市は有名だ。

Ningyocho Karakuri Yagura Scheme Tower
人形町からくり櫓
(やぐら)
          
               江戸の賑わい ・ 人形町通り
2009年11月7日に江戸落語と火消しをモチーフにした2代の櫓が設置されているのをあとで知った。
人形町には一定の間隔で 時間が来ると からくり時計が動くそうで ぜひ見てみたいもの
です。それにしても世界でこの町で生まれた優れた職人技に脱帽ー歩いて楽しい魅力ある通り
です。
  
         

       地下鉄人形町駅前
              
江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋
の中村座と市村座が この通りに面していたが、「元禄江戸図」には「人形丁」とあり当時は
その名で親しまれていたようですが 新和泉町(シンイズミチョウ)になり 関東大震災以降、
区画整理で「人形町」に改名1933年(昭和8年)正式に人形町となる。
  
  
Jusaburo hall ジュサブロー館 
ここ人形町3丁目には辻村寿三郎さんの人形館「ジュサブロー館」があります。 この町には今でも
江戸情緒の濃い下町気風が生きている。 郷愁をそそられもするそんな町です。世界的人形
アーティスト「辻村寿三郎」人形館が平成25年10月に広島県三次市三次町に開館しました。

            
人形町3丁目、 地下鉄人形町駅から5分程歩くとジュサブロー館に着く。アトリエ兼展示場だが
その時、お話をうかがう事ができた。 この場所は戦後偶然決めたとのことで、意外な気が
した。 未だ1代でこれほど卓越した作品の数々、辻村寿三郎氏の並々ならぬ努力の結晶
に他ならない。 何という奇縁!!
      
           
  
Genji store trace 玄冶店跡(ゲンヤダナアト)人形町駅A4徒歩すぐ

      
芝居町の北に吉原遊郭ができていた。 江戸(明暦)の大火で遊郭焼失。この地は御殿医・
岡本玄冶の屋敷で玄冶店(げんやだな)と呼ばれた。

「上の標示板のあらすじ」
玄冶(1587~1645) 京都生まれ。医術を玄朔に学んだ。 家光 京都上洛より江戸に帰る際
侍医として招かれ、 ばくふの医師をなる。  1633年家光大病から平癒し白銀200枚賜る。
(寛政重修家講による)拝領した屋敷、数千五百坪、その後 9代に亘り子孫住む。明治維新
で返還。玄冶店(げんやだな)は1853年歌舞伎狂言作家、3代 瀬川如香が脚色し中村座で初演。
「もしご新造さんへ、お富さんへ、いやさあ お富、ひさしぶりだなあ.....]の歌舞伎狂言
「与話情浮名横櫛」 この名せりふは玄冶店(ゲンジダナ)が舞台である。

   
 
   
Ubukeya うぶけや  江戸期の創業・古い店構え 江戸期の雰囲気ただよう。

       
  
        
多分 江戸期から続いてるしにせですね。 店の張り紙は江戸の名店の宣伝の宣伝でしょう!
これにも江戸の香りしますね.....
                 
  
包丁は 9000円也!さぞ、切れ味はいいんだろうなあ!
  
         
「もしご新造さんへ、お富さんへ、 いやさお富、ひさしぶりだなあ....]の玄冶店
(ゲンジダナ)。 そこは今日、雑誌コマーシャル撮影の舞台に!。 ここから 足は 甘酒横
丁の方へと進む.....
  
Amazake Yokocho store street
                  甘酒横丁商店街     
                   
  
          
  
  
    
            
  
 
                         
              
お店の商品を見てると郷愁が沸きます。小さな子供の頃が思い出されますね。 並べられた商品を見てる
と郷愁が沸きます。小さな子供の頃が思い出されます。このお店の類型店は数あれどここの
人形町のは 奥が深そう。 もう一枚パチリ! 明治座や浜町公園に抜ける甘酒横丁には、
伝統工芸店や老舗料理屋が数多く残っている。 8月のせともの市、10月の人形市、べったら市
は有名だ。
  
       
  
 風情ある甘酒横丁商店街はここまで。曲がり道は道路がすこし削られており歩きやすい。
     
「江戸時代、浜町は静かな武家屋敷、人形町は賑やかな商店街と歓楽街といった地域で、隅田川沿いの下町情緒の濃い所だった。

      
「今を遡ること350年前、現在の人形町あたりに茸屋町と堺町いう街があった。当時この街では江戸三座といわれていた小屋のうちの、市村座と中村座の2座が歌舞伎上演しており芝居街と呼ばれていた。また浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数件あり歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。ここで使われた人形の製作と修理に当たった人形師達は、この周辺に住み人形細工と人形の販売を生業としていた。以上が人形町の名の謂われとされており、ここ人形町界隈は隆盛をきわめる歌舞伎発祥の地と呼んでも差し支えない。」とあります。(弁慶像の標示板の説明文)
  
明治座や浜町公園に抜ける甘酒横丁には、伝統工芸店や老舗料理屋が数多く残っている。8月のせともの市、10月の人形市、べったら市は有名。
  
   
      仮水天宮神社             蛎殻町銀杏稲荷神 
人形町といえば水天宮神社があり有名ですが現在は立替工事中です仮社殿で参拝してきました。 蛎殻町にある銀杏稲荷神社へも参拝。  神社のお参り清清しい気分。 キテヨカッタ!   
この町には今でも江戸情緒の濃い下町気風が生きている。 何かなつかしく郷愁をそそられもするそんな町です。

      

                   築地
Tsukiji honganji Temple 築地本願寺 (重文)
  

       
明暦の大火、振袖火事で焼け日本橋横山町の南から築地に移転した。 後に、関東大震災で崩壊し、現在の本堂は昭和9年に完成したもの。 古代インド様式のエキゾチックな石造りの建物に見とれた。
築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となる。御本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。
  
        
        築地場外市場   晴海通り 
お昼はこの近くのホテルお勧めのお店でまぐろ丼をぺろり!でも特に新鮮というわけでもありません。はずれかな?!.....有名人のお店でしたが。
                             
  
  
Harumi Oasis  晴海 2020年東京5輪の選手村建設予定地。
 
  
        

晴海ふ頭は 都会のオアシスです。 広い空、青い広い海 の他は何もなく、静かな一時を過せる都心から近い貴重なスポットですね。
この埋立地に、とあるご婦人はこの場所が大のお気に入りで時々新宿から憂さ晴らしにでかけてくるとのこと; 東京でのオリンピック開催で世界のトップアスリート(このあたりに選手村宿舎建つ)、国内外の豪華客船が数多く寄航するであろう。 この今の静けさと開放感を求めて来る人たちのためのオアシス永遠なれ!私ごときアナログ人間は祈ってしまうが...
  
  
  
                                   
今日は晴海に停泊している世界一周クルースの船内見学コースへでかけました。
  
    
  
  
 

     
 隣の晴海ふ頭公園から都心を望む。
                                  
         
 南方向 お台場、レインボーブリッジを望む。
                         
Tsukudajima 佃島
関東大震災、戦災の難を免れたため古い町並みや釣り船と超高層マンション群が隣接する独特の景観でも知られるようになった。
access

東京メトロ有楽町線月島駅下車
江戸時代初期,摂津国佃村の漁師が拝領して造成した漁村であった
佃島の由来
本能寺の変までさかのぼる。明智光秀群生から身を守るため、三河への脱出を開始した家康が船がなく困っていた時、一向に手を貸したのが当時の摂津国佃村の漁民だった。その恩を忘れずにいた家康は1068年、江戸幕府を開いた折漁師たちを江戸に呼び小さな島を居住地として与え、故郷の佃村にちなんで「佃島」と名付けたという。1644年隅田川河口の三角州を埋め立て島が作られ、漁民はそこに移り住んだと伝えられています。
当時の佃島は、現在よりもずっと規模が小さく、佃小橋が架かっている先の部分しかありませんでした。百間四方ともいわれています。
その後、明治中期になってこの付近の埋め立てが進み、佃島の東側も埋め立てられ、「新佃島」と呼ばれることになります

      
中央上に見える赤い欄干橋が佃小橋。
    
佃公園より大川端リバーシティ21を望む
佃小橋前の400年前にも見られたであろう風景が近代建築リバーシティーと一つになった美しい絵を目の前にできる。 いつまでも見ていて飽きない魅力あるなつかしさを覚える光景である。

佃小橋から住吉神社へ
        
佃小橋を渡り進むと正面に高層ビルがその下には石川島灯台があります。 ここで左手にある鳥居を潜ります。

水門前から見た佃川支川
     
 左を眺めれば隅田川が流れている。そこに架かる佃大橋は昭和39年建造。
       
佃川そのものは昭和39年に埋め立てられ支川だけが隅田川の入り堀として流れている。
   
     
佃小橋の下の水路は隅田川からの入り江となっており、住吉水門で水位調整をしています。

Tsukudajima park 佃島公園
 

   

      
昔の漁村風景はレトロな風景となって人々を憩わせてくれます。
 
上右画像の立看板の大要
「この場所には江戸時代後期寛政十年(1798)徳川幕府より建立を許された柱あり立ち入り、掘り起こし禁ずる」とあり。
Sumiyoshi jinja Shrine 住吉神社
摂津国佃村の住吉神社(現・ 田蓑神社 大阪府)から分霊され、1646年現在地に創建された佃島の鎮守さまです。
 


Omizuya 水盤舎(おみずや)
  
水盤舎の上部の漁獲された将軍、御三家への献上された時の漁民の姿が欄干の装飾にほりこまれていたのに気づかず残念!!
  

         
      
 
      
  住吉神社の狛犬は(左)まりをしっかりおさえ、 右の狛犬は子を護ってるように、家族を護っているのかな?! 初めてお参りしましたが不思議にもわが身にそのみなぎる力強さパワーが沸いてくる気がしました。再度訪れたい神社ですね。              
      
うす曇のよき日、この神社詣り何ていい気分にしていただいたことでしょう。!しっとりした空気のうすら寒いのが幸いしたのか参拝客が極めて少数だったからでしょうか。 神社さんには申し訳ありませんがお陰さまで人気(ひとけ)ない静けさを一人占めできたぜいたくな参拝でありました。
                               
Sumidagawa river 隅田川 「大河」

      
名の由来

隅田川の名前は地域、時代でそれぞれ異なって、江戸時代頃、吾妻橋付近の下流は「大川」、浅草近辺では隅田川」「浅草川」、上流は「荒川」「宮古川」と。明治に入り工業化が進み、高度成長、有害な排水の増加、洪水から住民を守るための治水工事で水の都の景観を失われました。明治43年の水害を機に20年の年月を費やして荒川放水路が造られ、のち昭和40年放水路の方を荒川、岩淵の水門~下流東京湾まで23kmの正式名 「隅田川」 となる。  
       
上流の荒川から江戸へは多くの運河が作られ重要な物資輸送に使われた。運河の周辺には、屋形船、釣り船、渡し舟も発展して川遊び、堰堤での花見、花火見物で市民にとって憩いの場所となっていました。その流れ運ばれた土砂は下町土地造成のエネルギーである一方恐ろしい洪水を数多くもたしてきました。
            

+++Sumidagawa walk 隅田川の散策+++
                        
前夜は蔵前・東横インに宿泊、近くのバンダイ本社前のアンパンマン、どらえもん、ウルトラマン君たちに見送られ隅田川テラスへ向かいます。

Along Sumidagawa terrace 隅田川テラスに沿って
       

         
駒形橋方向から吾妻橋橋を眺める。
右の ビルとオブジェは、フランスのインダストリアルデザイナーフィリップ・スタルクによる設計。
尾は壁面に残る設計だったがビールジョッキの形、外壁メンテナンスを考え逆の向きに変更された。愛称「うんこ」他に「おたまじゃくし」「ねりからし」「くじら」「おばけ」 いろいろいわれてたんですね。 あなたには何に見える?!わたしには やっぱり......ですが、
  
        
 スタートどころには「カフェ」喫茶店、そばには やはり猫のオブジェが似合うのね。

 

いつもこんなにたくさんのかもめが飛んでるのかしら!昔からなんでしょうね。 そうだから 都鳥が和歌に在原業平の作「名にしをはば、いざ言問はむ都鳥....。」百合を連想させるのか百合かもめ...。かもめを見ながら歩いていると、早 言問橋に着いてました。



      
まだ桜の季節ではないけれど、ぜひ又その頃 テラスを歩きたいですね。 桜橋あたりはそう呼ばれるのは桜が見事なんでしょうね。
      
桜橋へ向かう。
            
Sakurabashi bridge 桜橋  形式は連続曲線鋼箱桁。竣工 昭和60年4月。橋長 約170m。 幅 中央部 20m/側径 6m。   デザインは 東京工科大学 横川昇二
     
桜橋は台東区と墨田区の姉妹提携事業として1985年(昭和60年)に完成したX型の橋で、隅田川唯一の歩行者専用橋である 。 隅田川に歩行者専用橋を造られたのは素晴らしい選択だったと賞賛したい気持ちです。ここを歩いている時 気持ちがいいんです。 ひとつには、やはり「X形」が開かなかったハート心がふわっと息を吸い込むように開放感あり...二者択一できる開放感が効いてる!!..なんかホットします。

       
横川教授は桜橋のデザインについて答えられています。
「桜橋は、アルファベットの「X」のような形をしています。景観検討委員会で話し合っているときに、まっすぐな橋ではなく、何か違う形はないだろうかと考えて提案したものです。両岸から来た人が、すれ違うのではなく真ん中のクロス部分で出会い、言葉を交わしたり心をつないだりできる場にならないかと考えた形でした」と。 先生のますますその素晴らしい想像力でご活躍 期待しております。

      
ピラミッドの形は私には 地球と宇宙へのコラボを想わせられます。 制限のある日常生活から無限なる世界へ.......

               



       

          

白鬚橋」手前、左手の壁にペンキで描かれた「浮世絵」がありました。
   
殺風景な壁に見事な絵ありて...楽しませていただきました。 Thank you!
北斎「富嶽三十六景・赤富士」 ・写楽「歌舞伎」・歌麿「美人画」
    
 
              

空に羽ばたく百合鴎ご覧ください。
優雅でもあり美しい鳥たち!! かわいいですね。
Look at Yurikamome flying beautifully.
                    
 

         

 
                   
Shirahigebashi Bridge 白鬚橋 しらひげばし
       
私が高校生の頃 友人に誘われ渡しで向こう岸へ渡った記憶があります。 晴海か佃あたりから南砂(江東区)へ行くのに 16歳の頃でしたが珍しかったのか鮮明にその時の光景が目に浮かびます。[ 時代の移り変わりで世の中は便利な方向に進展していますが古き交通手段・都電も含めあったら良かったのになあ」なんて、ここでつぶやかせていただきました。 あしからず。 sorry!!

  

       
明治天皇行幸記念碑
        
今日の「テラスに沿って散歩コース」は駒形橋から白鬚橋までとなります。
                            
明石町から浅草まで整備された河川テラスを歩いて 隅田川の水辺散策を思いっきり楽しん
でみたい。

参考コースです。
全コース (橋間の距離と時間 あくまでかかる時間は一応のめやすです。)
START 勝鬨橋~14分~佃大橋~9分~南高橋(亀島川)~5分~中央大橋~9分~永代橋~5分~隅田川大橋~8分~清洲橋~4分~万年橋(小名木川)~8分~新大橋~10分~
一之橋~6分~両国橋~3分~柳橋(神田川)~25分~蔵前橋~8分~厩橋~8分~
駒形橋~吾妻橋 GOAL


        
隅田川近辺あ散歩

         

       
Makurabashi 枕橋: 今注目されている向島、スカイツリーの近く、下町情緒が感じられる。
北10間川のほとり上には吾妻橋が架かる。 この彫刻板を見ていると江戸の川には舟で行き来していた時代が目に浮かぶようで、レトロ気分になってました;この表示版が永く存続されることを心より念願。 後で分かったんですが京成電鉄の電車が時折通過する瞬間があり、川、電車、東京スカイツリーを一枚の写真におさめられるスポットだったんですね。この時気がつきませんでした。又 撮影しにくるつもりでおります。そのときは桜見ができる日を決めてから.....

  枕橋

.....
[吾妻橋一丁目と向島一丁目を結ぶ橋。昭和3年11月に架けられた橋で、創架は寛文2年(1662年)です。墨堤はここから言問団子まで高速道路の下になります。この橋ははじめ源森橋と称しましたが、ほとりに源兵衛という船乗りが住んでいたので、源兵衛橋とも呼ばれていました。又源森橋の北水戸藩の下屋敷(現隅田公園)があり、そこに入る掘割に新小梅橋という小橋が並んであったため、ふたつ並びし枕橋と小唄にも謡われていました。枕橋 今注目されている向島スカイツリーの近くの下町、コンクリート上だが標識に江戸の雰囲気が感じられる。北10間川のほとり吾妻橋に架かる。ここで水質検査が行われている。  墨田区役所に隣接。
                                   
      
 Katsu Kaishu statue 勝海舟の像 隅田川沿いに立つ向島墨田区役所敷地内
   

Heisei Nakamuraza 平成中村座
山谷堀公園そば  
      
江戸初期に、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)により中橋南地(現在の京橋付近)に建てられた猿若座が中村座の最初であると同時に、江戸歌舞伎の発祥地でもあります。その後日本橋の禰宜町、堺町から天保年間に浅草(現在の台東区浅草6丁目)に移りました。以後この地は約40年にわたって一大芝居町として繁栄することとなります。また移転した折、中村勘三郎の始祖猿若勘三郎にちなみ、町の名を聖天町から猿若町に改称しました。
                                       
Asahi Beer Tower  アサヒビール タワー
いつも遠くであのオブジェを眺めてたっけ!きょうはここの22階でビールを景色見ながら......

アッ!スカイツリーがガラスの壁に映ってる。 なんか珍しいものを見たようで得した気分。
     
アサヒビールタワーの最上階のお店。目前に東京スカイツリーや浅草・隅田川一望できました。さらに新宿、池袋が見えたんですが...お天気よいと関東平野を取り巻く山が見えるという。 

           
高いビルでクリアーガラス越しに景色眺めながら飲むビールは格別なり。平均予算 600円。さすがにここのビール+眺望できて超おいしかった!!

.Funny cats 愉快なオブジェ 猫たち                        
               
コンクリートの建物の中にあって、こんなオブジェが目についた。 動物の.....猫のいろいろな姿が見えて猫好きには然りである。 上のは蛇かな! 面白い組み合わせ。 なんかほっとさせられてリフレッシュ気分。 thank you !
         
Tokyo bay
 東京湾
  東京大江戸博物館で撮影 (写真撮影は全てO.K.でした。)
              
上流の荒川から江戸へは多くの運河が作られ重要な物資輸送に使われた。運河の周辺には、屋形船、釣り船、渡し舟も発展して川遊び、堰堤での花見、花火見物で市民にとって憩いの場所となっていました。その流れ運ばれた土砂は下町土地造成のエネルギーである一方恐ろしい洪水を数多くもたしてきました。

Mukojima 向島 
いまも江戸情緒がいちばん残る向島。 江戸の向島、大河堤は摘み草の名所だった。向島は
低湿のため良い野菜がとれ将軍家御用の菜園があった。小梅村(コウメムラ)のなす、瓜、菜、
サトイモ、紫蘇。 向島の川岸ではウナギ、白魚、コイ、シジミが有名で 料亭も数多かった。

     

       
                            
  
           
Tokyo bay Cruise 東京湾クルース
昨日は 朝日ホールでロシア映画見た後、新大橋 東横インにチェックイン。よく眠れたようで気分
爽快 スケジュール通り コレドでグループ集合してから日本橋の船乗り場から乗船。「水の都大江戸クルース」コース出発です!                                                       ’12 9/12
 
 
                           
     
 Kiyosubashi Bridge清洲橋 (竣工昭和3年3月)                    夜景写真from google

清洲橋は 下流の永代橋と対をなす(震災復興の華)と呼ばれた優美なつり橋です。世界で
最も美しい橋とされたドイツ・ライン川にあるつり橋をモデルにしています。
隅田川に架かる(清洲橋、永代橋、勝鬨橋)の3橋は国の重要文化財(建造物)。 清洲橋と
永代橋は関東大震災後の帝都復興事業のシンボルとして、勝鬨橋は当時、最先端の技術
を駆使して建設された わが国最大規模の跳開橋である。  

   

   
 Shinoohashi New bridge 新大橋(創立1634隅田川3番目の橋) 西岸日本橋浜町

     

   
Eitaibashi Bridge永代橋(竣工:大正15年12月)
ここからは「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と眺望の素晴らしい場所だったようだ。放射線状の大規模なアーチ形の近代的橋梁で 幅1.5m以上の鋼製で、裾はゆるやかな曲線、
「帝都東京の門」として、上流の清洲橋と共に隅田川屈指の名橋である。


        h

  
クルースは神田川へ to  Kanda river       Yanagimori shrine 柳森神社 

              


聖橋下を通過します。passing under Hijiribashi 左上はJR お茶の水駅 Front left Ochanomizu
2012 8/25 11:48
ーEndー                 
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